優しそうなやつは優しいし、モテそうなやつはモテるし、ダメそうなやつはダメである。
見た目から受けるイメージってのは、大体において正しい。
◾︎見た目に能力が出る
服装な雰囲気などの総合した見た目が既に「情報」であり、「全能力がそこに出る」。
例えば、コミュ力などの「社会性」。
これは、相手にどう見られるか?
どう演出するか?
など、「相手と自分の関係性がどうなっているかを受け取る力がある事を示す」。
気にしない人、即ち「どう見られているかを感じ取れない人」は、「社会性のない見た目になる」。
服装にしろ、髪型にしろ、身につけているモノ全てに対して配慮が足りなくなる。
結果、あまり良い見た目ではなくなる。
気にする人は逆で、どう見られるかを分かっているので、見た目に関するモノに対する配慮が出る。
その結果、小綺麗な見た目となり、第一印象が良くなる。
同様に、考える力がある人は軽率な事をしなかったりなど、とかく「立ち振る舞い全てが情報」であり、「その人の能力を表す」。
◾︎膨大な経験から、相手の見た目を判断してる
人間は皆んなそうだが、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、社会人と、既に膨大な量の「経験」をしている。
当然、嫌なこともあり、良いこともあったはず。
その中で、凄いやつもいれば、大したコトないやつもいたはず。
そういった「経験」の中から、相手のコトを判断している。
経験に裏打ちされた、確かな「勘」であり「感覚」でもある。
その感覚を見て見ぬふりをするのは勿体ない。
◾︎文章では分かるのは「内容」のみ
相手を正確に判断出来なくなる。
つまり「見誤りやすい」。
特にネットで、このブログなどが代表的。
俺が自慢話を書いても、失敗談を書いても、「「何を」「どのように」書いているか?」しか分からない。
本来であれば「誰が」「何を」「どう言っているか?」で判断出来るモノが、主題と内容でしか判断できない。
情報の正確性は「見た目の情報に劣る」。
◾︎文章では「相手を判断できない」
とりあえずの判断として…
何を言いたいのか?
言いたい内容の質はどうか?
この2点での判断となる。
しかしながら、正確性に乏しい。
乏しい上に、言葉を尽くして説明すべき相手なのか?という判断もつかない。
見た目が分かれば、コミュ力や能力のある人には説明したり、逆に説明しても無駄そうなやつは誤魔化したり出来る。
しかしながら、文章だけの場合、説明すべき人なのか?説明してもムダな人なのか?の判別ができない。
本などもそうだが、文章はまあ「暇つぶし」ですよ。
情報量が少なすぎてコミュニケーションとしては難しい。
◾︎まとめ
見た目の判断は正しい。
それは「経験」に裏打ちされた「感覚」だから。
そして、文章では相手を判断できない。
LINEなんかでやり取りできれば、どのくらいのペースで帰ってくるか?やり取りした内容を覚えているか?それが会話に活かされているのか?などの観点から、およその性格と能力と人物像は掴める。
しかしながら、コメント程度のやり取りで人物を判断するのは無理。
そんな感じで。
*余談
過去にも書いたが、このブログは「俺の完全なる趣味」でやっている。
主題を決めるのも俺だし、内容を決めるのも俺。
思った事を好き勝手にラクに書くだけ。
仕事としてやってるブログであれば「カネ」や「人気」などが重要になる。
しかしながら、このブログに目的は一切ない。
ただ俺が思ったコトを好き勝手に書く。
見るのも自由だが、去るのも自由。
意見するのは自由だが、それを受け入れるかを決めるのは俺である。
面白いなら見れば良いし、嫌なら去ればいい。
なんの干渉も受けず、好き勝手やってるブログがここの特徴である。
それを前提として、後の判断はあなたが勝手にしてくれたらいい。
俺はこれからも自由にやってますんで。