研究、独白ブログ。

思った事を書く、思い付きブログ。

コンテンツの秘密(川上量生)を読み直して考えた。

 

筆者の定義では、芸術は「キュレーション」。

自分の中の感覚を外に出す事で作られるものを「芸術」という。

 

◾︎芸術の構成要素

⚫︎自分の感性

「独自の感覚」。

例えば「恋愛」。

あなたが好きな女と過ごす時に「どういう感覚があったか?」。

手を繋いだ時のドキドキから、一緒にいる時の温かく落ち着く感覚、こいつが横にいて良かったって感情まで「独自の感覚がある」。

それを「表現する」。

どういう場所、状況、関係で、どんな感情が起きてたのか?

これを全て「自分で作り上げて表現する」。

例えば、誰もいない夏終わりの海辺で、彼女と一緒に何を言うでもなく一緒に座ってタバコ吸ってゆったりしてる優しい時間が好きだった、とか。

これを「人に伝える」。

故に「個人で異なる」。

最も印象的な彼女との思い出はセック◯かもしれないし、一緒にいた落ち着いた時間かもしれない。

「伝えたい部分を自分で切り取って」「その人が思う表現で」伝える。

何を主題にし、何を伝え「何を伝えない事で」主題を引き立たせるのか?

これこそが「属人的な要素」であり、あなた独自の「芸術」になる。

 

◾︎主観的情報量も客観的情報量も必要ない

客観的情報量ってのは、いわゆる「実写」。

現実にあり得る条件を全部入れ込んで伝える。

主観的情報量ってのは「自分が見ている世界」。

例えば、「万引き家族」の是枝監督は「食事のシーンに最も力を入れる」という。

これは「食事にこだわりがある」という監督ならでは。

…正直なところ「食卓の感覚は共有できなかった」が、これが「是枝監督の独自の感性」であり、共感できようができまいがこっちで勝手に判断していい。

「万引きを通しての表現手法を選んだ」という事や、それに至る感情の描き方は「監督にしかできない」。

監督の「主観的情報量」があってこそ成し得たモノ。

 

◾︎優れたクリエイターは「主観的情報量の選択が優れてる」

コルク代表佐渡島氏曰く「作家はもう一つの世界を持っている」。

米津玄師なんかがその代表。

まず「自分の感覚」があり、それを表現する手法を持つ。

ゲスもそうだし、基本的に「芸術家」と言われる人種は「独自の感覚」がある。

 

⚫︎故に「キュレーター」と呼ぶ

情報を取り捨て選択する人。

要は「この人のフィルターを通したモノが見たい」と思わせる人。

米津の感覚を通して表現される「音楽」、川谷の感覚を通して表現される「人間模様」。

王道なら王道なりの良さがあり、斜に構えるならその方向での良さがある。

「その人のフィルターを通して見える世界が見たい」。

情報キュレーターであり、作品表現者である事が「芸術家」。

 

◾︎分析と表現は「真逆」の方向にある

分析が優れる人は「なぜ、どうして?」と考える。

そして「外から中を捉えようとする」。

外にあるもの=すでに表現されたモノや結果から遡って考える。

表現者は「なんでだろう?」と考える。

そして「中から外を見ようとする」。

自分の中に沸き起こる感情=外で起こっている事に当てはめて理解しようとする。

だから「イチからモノを作る事ができる」。

分析する人は「モノが作れない」。

内側から=自分に沸き起こる感情を理解する事は「外から理解できない」から。

「女を好きになる感情」を外から理解しようとすると、「生殖のため」とか「生存戦略のため」となる。

だが実際はもっと「生々しい」。

なんかいいなと思った女と話してて、やっぱいいなと思う想いが膨らんでいって、誘うか誘わないかで逡巡して、会って話してやっぱ楽しくて、いざ誘うって流れを経る。

これをオートメーション的に「流れに乗せる事で」簡単に女とやれると「どこのネットサイトでもいう」。

じゃあお前が「本当に惚れた女に同じことができるのか?」って言うと、おそらく「否」。

そこは「自分の言葉で語る」必要があるから。

だからこそ「分析に頼る」。

んで「その場面に最善な一手」を探す。

 

表現は「真逆」。

自分が好きになった事を「相手に伝える」ように動く。

お前といる事でどんなに素晴らしい時間を過ごせて、どんなに優しい気持ちになって、どんなに幸せなのか、という事を「伝える」。

このタイプに必要なのは「真っ直ぐストレートに表現する事」。

言葉も表現も「自分の中にある」。

分析も借り物も全て捨てて「自分の欲求をストレートに伝える」事で上手くいく。

 

◾︎あなたは「どちらが得意だろうか?」

これは「個性の問題」。

分析が得意な人と思いを伝える人とがいる。

薄々気付いてるだろうが、筆者は「伝えるのが得意」なタイプ。

分析はめんどくせえし「結論が分からない」で終わる事が多い。

なぜなら「内側から外側を見てる」から。

主観的情報量って「その人の感性じゃん」っていう。

「その人にしかできないもの」に興味がある。

人間ってもっと不合理で「猿みたいなもの」って部分と、「想いを伝え合える」っていう部分がある。

 

逆に「自分の事なんて信じない!」「外から分析する事で分かる!」ってタイプもいる。

それはそれで素晴らしく、自分の考えに捉われずに対象を把握することが出来る。

一歩引いた目で見る事で分かる事は多くある。

 

…ただまあ個人的には「生死を分ける選択」は、「利害を超える」と思ってる。

中学生の時にヤンキーに絡まれた時の危機感とか、友人がそばでガチ殴りのリンチされてる時の感覚ってのは、人の理解を超えたところにある。

あの時の本能から発せられる「ヤバい!」って感覚で正常な判断なんぞできるわけないし、その選択が正しいとも限らない。

人生なんて「そんな選択の連続」なわけ。

先が見通せないのが普通で、手が届くところは限られてる。

自分の行きたいところが危険だからといって避けてたら前に進まない。

そんな安パイばかり追っててもしょうがないし、つまらなすぎる。

 

しかしながら、それが好きな人もいる。

…だんだんメンドくさくなってきたので終了。

とかく「得意な事をしよう」。

 

◾︎まとめ

芸術家はキュレーター。

主観的情報量を作品に落とし込む。

その情報は「内側にあるモノ」で作られる。

逆に、分析が得意な人は「分析で作る」。

外側の情報を大量に仕入れ、それを分けて見比べる事で新説を作り出す。

繊細で自分の気持ちを捉え表現する事が得意なら「それを伝えよう」。

逆に、イマイチそれに興味がなかったり、分からないのであれば「外側を分析しよう」。

外側のやり方で自分の要望に適したものが見つかる。

得意な事をしよう。

結局は「自分に合ったことしかできない」のだから。