本人が分かるビジネス書はさておき、偽名や実績が不明な「人」と、「書いてるコト」は一致しない。
書いてる人がどうあれ、「非常に役に立つ事が書いてある」という事も多分にある。
◾︎作家
面白ければ良い。
超絶変わり者だが、そんな事は全くもって関係ない。
なんせ実効性があるかどうかすら関係ない。
面白ければ人気が出る。
◾︎人は本質的に「人を判断できない」
それは「実際に会っていてすらも」。
例えば、超絶いい身体した美人がいたとする。
その人が「どれくらいの恋愛経験があるか?」は、話すまで分からない。
話したとしても、その人が実際はモテなくて自信がなくて「強がって多めに申告してる」という場合もある。
しかしながら、目の前にいるのは「いい身体をした美人」。
その申告を「疑う事ができるだろうか?」。
「あ〜そりゃまあそうだろうな〜」っつって流す可能性が高い。
同性であっても、どう見てもイケメンのやつが「恋愛経験がない」っつったとしても、「そうは言ってもお前」的な見方になったりなど、基本的に「色眼鏡は外せない」。
それが「文章」ともなれば、「何も分からない」と言って相違ない。
◾︎成功の方法は成功者しか知らないが、同じ方法で自分が実現できるかは分からない
だから「ややこしい」。
成功者を真似ても成功しないし、成功者じゃなくても、それっぽい事を真似たら上手くいくかもしれない。
新しい成功の方法があるかもしれない。
それは「あなたのオンリーワン」なんだけどね。
◾︎リアルじゃなくても、読み物として面白ければいい
とりあえず意見を出しておけば「一定数の賛同は集まる」。
これはイケハヤや、はあちゅうを見てれば分かる。
何でもいいから真っ直ぐに主張すれば「まあそうだよね」って人が集まる。
賛同者が出ると自信になるから、より強く前に出れる。
以降「繰り返し」。
前に出る度にちょっとずつ賛同者が増えていって、どっかに呼ばれたり、noteで売ったりできるようになる。
これすら「俺の創作」だからね。
「俺は実際にイケると思う」けど、「現実的にどうかは分からない」。
イケハヤと、はあちゅうだったからこそ可能だったのかもしれないし、時代が良かったのかもしれない。
それは「分からない」。
だからこそ、誰もが自由に「創作」する事ができる。
◾︎文章とは「想像」
文章っつか、芸術全般。
「自分の中にあるもの」を出す。
出したところで相手にされないから、各種SNSで拡散する。
もしくは西野みたいに「テレビで言う」。
「ディズニーを倒す」っつって。
その時点で「面白い!」ってやつと「何こいつ?」ってやつと「ハッキリと別れた」。
そう。
「応援してくれる人はいる」。
一定数は必ず。
「何を言っても」そう。
俺のブログでも、良いと言ってくれる方が一定数いる。
だから、想像を創造して、皆様の前に出す。
もちろん「現実にあった事も含まれる」。
だが、それが「絶対に正しいとは限らない」。
運動でパニック障害が治る事は確かだし、メンタルに効くことも確か。
しかしながら、食事が整ってない段階で動きまくると、悪化する可能性もある。
その辺は「分からない」。
何かが違えば違う結果になるし、数年後にもっといい治療法が出るかもしれない。
「発信者」と「受け手」で情報に齟齬があるし、基本的に正解をもたらすのは容易じゃない。
◾︎結局は「やってみる」しかない
んで、その前提は想像でも現実でも関係ない。
やってみた事だけが「リアル」。
だから、本や文章は「そんなもの」だと思って欲しい。
有益っぽい情報があったら「実際に試す」。
それでこそ「自分の人生に菅源される」。
◾︎まとめ
文章で人格は分からず、それはどうでもいい。
もっと言えば「内容もどうでもいい」。
「あなたが実際に試した事だけが」現実になる。
面白いの読んだな〜で止まると、小説や漫画を見たのと同じで「単なる暇つぶし」。
気になったモノは「試して見ましょう」。
使えたら「良いのがあった」。
使えなかったら「嘘じゃねーか」で。
自分の「リアル」を大事にしていきましょう♪