研究、独白ブログ。

思った事を書く、思い付きブログ。

クルマの値段上がりすぎ。

 

20年前から50万近く値上がりしてる。 

俺がクルマに興味を持ち始めた00年代の感覚との差をご紹介。

 

◾︎00年代当時の金銭的な肌感覚

20〜50万 若者の最初の中古車(5〜10年落ち)

50〜80万 そこそこ程度がいい(型落ち、5万Km辺り)の中古車

80〜100万前後 軽の新車

120〜150万 コンパクトカーの新車or程度のいいミドルクラス中古車(型落ちか同型、3万Km以内辺り)

200万前後 メインのファミリーカー新車価格帯or程度のいい高級車の中古価格

250万〜 メインファミリーカーのいいグレード

300万〜 高級車(クラウンや国産スポーツカーなども300万円代だった)

もうちょい言うと、普通の人はクルマに出せて200万くらいが相場。

300万オーバーはよほど余裕がある人か、クルマに人生賭けてる人が買うモノだった。

若者(20代前半くらい)は100万前後出して探すといい方で、50万くらいの中古車を乗り回して遊ぶのが普通だった。

30代で150万くらいの新車。40代で200万~300万未満くらいのファミリーカーを乗ってるのが当たり前で、よほどの事がない限り300万オーバーのクルマを買うことはなかった。

子育てを卒業した50代、退職金で最後にいいクルマを買いたい60代の方が乗る最高級車が300万円代のクルマだった。

では現在の肌感覚はどうか?

 

◾︎現在の肌感覚

120万〜150万 軽の新車

200万前後 コンパクトカー新車

250〜300万前後 メインファミリーカーの新車価格帯

300万~ ファミリーカーのいいグレード 

400万〜 国内向け高級車

500万〜 世界的な最高級車

となる。

感覚的に50〜100万値上がりしてる。

軽自動車が100万で買えないという驚きと共に、コンパクトカーでもそれなりの装備を整えて購入した場合は200万を越える。

ミドルクラスのメインでも同じ。

昔は乗り出し200万くらいだったセレナが、現在では250万くらいに値上がりしている。

金持ちや引退した人が乗るレクサスは400万越え。

…うん。クルマからは離れるよね。

 

◾︎シンプルに高いから売れない

若者が買える値段じゃない。

一時期のバイクもそうで、20年前はビッグスクなんざ中古で30万もあれば買えたし、新車でも50万くらいだった。

*現在は60万越え

今は中古で30万じゃ程度悪いやつか不人気車しかない。

クルマの差額50万あれば、旅行5回は行けるし、いいPCも買える。

毎月に換算すれば差額4万円である。

こんなんで売れるわけがない。

 

▪今のクルマ業界はおっさんが仕切ってる

主に50代。

この人たちが20代だった30年前…つまり「90年代のクルマ」に憧憬があり、そこを基準としたクルマ作りになっている。

90年代はスポーツカー及びセダンの全盛期であり、低価格なスポーツカーも大量にあった。

スープラ、GTR、NSX,、ロードスターなどはまさにその世代の方々を直撃するモデルであり、今リバイバルされているのは偶然ではない。

お前らが乗りたいクルマは分かったし、カネのある50代なら買えるだろう。

しかしながら、現代の若者が乗りたいクルマはBRZではなく全くの別物であり、カネもないのである。

差額50万だぞ?

追加で新車のバイク買ってもお釣りがくるわ。

もっと安く買いやすいクルマを作って欲しいもんだ。

 

▪まとめ

若者のクルマ離れはシンプル。

「高いから買わない」。

30代からの意見は以上です。

クルマ世代であり、今現在のクルマ業界を仕切ってる50代以上の世代の奴らが気付いてくれるといいなあ。 

 

コメントに(ほぼ)返信しない事にしました。

 

コメントが増えてきた事もあり、よほど気になるコメント以外は返信しない事にしました。 

理由は簡単。

「返事を丁寧に書くほど文量が増える」から。

返事の文量だけで次の記事が1つ書けるくらいになってしまう。

ただでさえ文章だけというのは齟齬が大きくキチンとした説明が必要になる。

それに加えて、丁寧に書こうとすればするほど文量が増えていく。

真っ当でありがたいコメントに丁寧に返信しようとするほど文量が増える。

しかも現実的にはポジティブなコメントだけではなく、クソみたいなネガコメも付くため、コメントを精査する手間や時間がかかる。

コメント欄を閉鎖はしませんが、この先「俺が返事をすることはほとんどない」です。

ポジコメとネガコメが半々くらいなのと、ポジコメに丁寧に返信するとそれだけで俺の集中力が終わってしまう。

 

▪この記事を書いたのは「常連さんやポジコメをくれた方々へのお礼のため」

この記事も1か月もすれば流れていって、一見さんには見られなくなります。

なのでこの記事は「常連さんや今までポジティブなコメントをくれていた方を対象に書いてます」。

「色々な関係でコメントに(ほぼ)返信しない方針に決めました」という事をお知らせするために書きました。

これからは基本的に「コメントを書いても俺が返事する可能性は低い」と思って下さい。

こんなクソマイナーなブログを読んでもらって、さらにコメントまで頂いて非常に申し訳ないのですが、ご理解頂けると幸いです。

 

常連さんやポジティブなコメントを下さった方々には心より感謝を申し上げます。

誠にありがとうございます。

 

 

自称愛妻家が最も離婚しそうな理由。

アルピー平子とかが最右翼。

 

重要なのは「自分の気持ちと相手の気持ちは別」という事。

自分がいくら相手を好きでも、相手が自分をどう思っているかは分からない。

ここで根幹の問題が見えてくる。

 

▪愛妻家は「自分が相手を好き」としか言ってない

つまり「相手がどうなのか?」という視点がない。

本来ならば「相手から」好き、カッコいい、一緒にいて楽しい、気持ちいいなどの言葉や態度でもって、初めて相手の好意を判断できる。

「その上で」好きと言っているわけではないという事。

ただ「自分が」相手を大事にしてると思ってる。

「相手はそう思っていないかもしれないのに」。

 

▪好きだから何をしてもいいわけではない

よく「自分が好きなら何してもいい」と思ってるやつがいる。

それ「相手が我慢してるだけ」だよ。

相手の都合も顧みずに予定を決めたり、無理に実行したりする。

突然会いたいとか、3日会わないと我慢できないとか、ああいうやつ。

繰り返すが「相手が我慢してるだけ」。

それは好きではなく、単なるわがままにすぎない。

 

▪好き=相手に対して犠牲を払えるコト

相手を好きだという事は「そいつに快適な環境を提供するために犠牲を払える」という事。

相手が話したい時に話し、相手がいい都合の時に会う。

相手が好きなモノをプレゼントし、相手が好きな場所へ行く。

自分が話したい時や会いたい時でも、キチンと相手の予定や状況を確認し、無理のない範囲で提案し、相手に選択肢をゆだね確認をする。

「それらを無理のない範囲で行う」。

とにかく、相手が不快に思わない範囲で調整し、自分が不快に思わないくらいの譲歩でとどめる。

先述したが、相手が何かしてくれない、何かをして欲しいと求め続けるのは、好きではなく「単なるわがまま」である。

本当に相手が好きならば、相手が不快に思う事をせず、できるだけ気持ち良く過ごせるように気を遣い、行動してあげる事である。

それが本来の意味での「優しさ」であり「気遣い」である。

うわべの優しさなんざ優しさではなく、あってもなくても構わない程度の単なる「やりとり」でしかない。

 

▪自称愛妻家は「相手から好かれているのか?」

奥さんから好きと言われているのか?

奥さんは我慢をしていないのか?

「奥さんは自称愛妻家と一緒にいて楽しい人生を送れているのか?」

自称愛妻家は自分の気持ちばかりで相手の気持ちを言う事がない。

離婚すんじゃねえかな?と思う。

 

▪まとめ

自分の気持ち≠相手の気持ち。

相手から「好き」「一緒にいて楽しい」「気持ちいい」などの言葉や態度がもらえて、初めて相手の好意を判断できる。

好きだからと言って何してもいいわけじゃない。

無理してる分は「相手が我慢してるだけ」。

好き=相手が快適に過ごせる環境を提供するコト

こいつのために犠牲を払えないと思うなら、そいつと一緒にいない方がいい。

最後にこの記事の重要なポイントを。

自分がどう思うかではない。

「相手がどう思うか?」だ。

それは、相手が快適で気持ち良く過ごせ、相手から好きだと言ってもらえて初めて分かる事。

 

さて、あなたは大事な人に「どう思われていますか?」。

好きだと言ってもらえるなら幸い。

答えられないなら、それはどう思ってるか分からないという事。

それは自分だけの思い込みであり、早急に相手に確認してみると良い。

そのコミュニケーションができないなら、早晩別れることになるだろう。

 

現実をしっかり見ましょう。

では。

 

再就職決まりました。

 

今回は詳細を明かさない。

なぜなら明かすメリットがないから。

前回の就活は詳細にすべて書いたが、特に参考にされる気配もなく、役に立った気配もないので、わざわざプライベートなことを晒してデメリットを負ってまで情報公開する必要はないと感じた。

なので今回は決まったという報告というか、記録を残すために書いた。

 

業界の平均年収が大体550万程度の業界であり、ほぼ理想通り。

外から感じるイメージと実際に働いてみてのギャップがどれほどのモノか、業務内容は俺と合っているのかなど、やってみないと分からないことは沢山ある。

ちなみに、合わなければまた再考する予定。

年収600万が狙えて、転職しやすい業界で、自分に取って働きやすい業界。

それは探せば他にもあるし、行動し続ければ見つかる。

 

言葉だけでは説得力がないが、別にあなたを説得する必要もない。

あなたが気に入ろうが気に入らなかろうが、俺の人生には全く関係ない。

俺の人生は、俺が行動し、俺が決める事でしか前に進まないし、進めない。

 

俺は年収600万目指して行動してるけど、お前は今何してる?

俺は俺の人生を変えていくけど、お前はどうする?

 

答えは必要ない。

行動して欲しい。

 

幸福度は年収600万で最大なので、そこを目指す事にした。

 

「600万で幸福度は頭打ちになる」という。

これはおよそ自分の欲しい物の実感としても非常に近いし値であり納得できる。

俺は旅行もいかないし、そんなにカネのかかる事も好きじゃない。

なので、上物含めて3000万くらいの家を買い(30年ローンで月約85000円)、300万くらいのクルマに乗り(5年ローンで月5万。維持費含め約8万)、月5万くらい食費に使え、交際費に5万使え、趣味に10万くらいぶっ込めれば欲しいモノはなくなる。

8万+8万+5万+5万+10万=36万。

つまり「俺の金銭的な幸せは月36万円貰えれば完遂する」。

月36万だと年収432万。

年収600万の手取りが約450万なので、そこが最大の目標となる。

では、それはどれほどの難易度なのか?

 

▪600万以上もらってる人は「全体の20%程度しかいない」らしい

これのポイントは「全年齢での分布」だという事。

つまり、50代や定年直前の60代などの最大給料をもらっている人たちも含まれる。

その上での20%。

かなり厳しい数字である。

では500万以上としたらどうか?

500万以上だと「30~35%」。

この辺りであれば、個人的な経験上、努力で狙える数字と言える。

健康も、女も、バスケも、ゲームも、真剣に取り組んだモノであれば上位30%くらいなら対等に戦えてきたし、その辺までなら楽しい努力で達成できる数字である。

 

▪普通に、当たり前に目指す

ごく普通に会社に入り、ごく当たり前に社会に出て、ごく当たり前に稼ぐ。

バクチ的な要素は一切なしで。

起業するとか、芸能人になるとか、ユーチューバーになるとか、転売で稼ぐとか、ブログで稼ぐとか、「クソみてえな可能性と夢は全て捨てる」。

あんなのは、夢は夢でも「夢想」。

んなクズみてえなこと言ってっから、努力もせず、現実も見ず、結果も出ず、ネットのコメントで暴言ばっか吐いてる社会の鼻つまみ者になっちまうんだよ。

そんなクズは、同じクズを呼び寄せる。

俺がすべきなのは、夢を追いかける事ではなく、クス相手にクズという事でもない。

キッチリ社会に出て、正当に努力し、きちんと報酬をもらう事。

ごく当たり前に働き、上位30%に追いつき、追い越すこと。

それなりの報酬を貰える会社に入る事は必須だが、そこできちんと努力して結果を出すことに力を使うのが必要なことである。

 

▪まとめ

幸福度はおよそ600万で最大値になる。

年収600万は上位20%。

ちょっと難しい。

年収500万で上位30~35%。

ここはイケる。

夢を追わないで、キチンとやろう。

報酬を貰える会社に入り、そこで努力し、結果を出す。

最短1年、最大でも3年もやれば達成できるだろう。

方向性を持った努力をしましょう。

 

 

カネを稼ぐのはとても重要。

 

筆者は今まで生きてきて、ガチで金に困ったという経験がない。

ないならないなりに調整したし、医療にかかれない、明日の飯もヤバいというほどの困窮をしたことがない。

その結果、カネの重要性をイマイチ把握していなかった。

単純に目の前の生活という意味でもそうだし、それ以上にメンタルにもかかってくる。

 

▪カネを稼ぐ能力=自信

自分の力、自分の能力で「生きていける」という確信を得るための手段のひとつ。

カネを稼げるという事はそこで生きていけるという証明。

誰に頼らずとも、自分の意志で生活し、自分の意志で働ける。

さらには、稼いだカネで自分の好きなように色々なことが出来る。

逆に言えば、カネが稼げないというだけであらゆる選択肢が狭まる。

交友関係があっても遊びに行く場所が限られるし、出来る事も限られる。

欲しいモノがあっても、買えるものは限られる。

つまり「経験できることの幅が狭くなる」。

自信もくそもない。

 

▪何はなくともカネは稼ごう

自信がなかろうが、友達がいなかろうが、童貞(処女)だろうが、どんなクズだろうが、何でもいいからとにかく「カネを稼ごう」。

カネが全てを解決するとは言わない。

しかしながら「大半の事はカネで解決できる」。

カネを稼ぎ、社会に出て、成功しようがしまいが、とりあえず不自由なく生活できるだけのカネを稼ぐ。

好きな食事を摂り、家を借り、車を持ち、趣味に回せる余裕があるくらいの収入までは。

およそ月収30万くらいだろうか?

*独身者で

*データ上は年収400万を超えると幸福度の上昇が鈍るらしい。

それ以上稼ぐのはある種の趣味だが、そこまでは頑張って稼ぐ方が色々と良い効果をもたらしてくれそう。

 

▪ちゃんとおカネを稼ぐことに向き合う

筆者は割と真剣にカネのために仕事はしたくないと思ってきた。

前の仕事もそうだったし、今のブログもマネタイズのために記事を書こうとするとやる気がなくなる。

しかしながら、それはある程度の収入があり、選択肢があって初めて言える事である。

最近初めて「ちゃんとおカネを稼ぎたい」と思った。

カネのために仕事をし、カネのために生活をする。

 

▪カネのためにする仕事は何が良いか?

やりがいや面白さではない。

カネ。

カネを稼ぐためには何の仕事が適しているのか?

自分にとってラクで、何年も続けられて、煩わしくない仕事は何か?

基準が変われば中身も変わる。

やりがいや面白さは置いといて、とりあえず稼げることをやってみようと思う。

 

▪まとめ

カネ=自信。

生活という必要最低限でありながら最高に重要なそれを満たすと同時に、選択肢を広げてくれる。

カネのあるなしは経験の幅に繋がる。

ちなみにアカギやカイジで有名な「福本伸行」氏が本気で漫画家に取り組み始めたのもカネが理由だったという。

*海外旅行好きでバックパッカーとして格安で海外を回っていたが、30代の時に初めてカネを出したツアーで遊べる内容が全く違い、カネを出すとまるで違う経験が出来るのを知って、本気でカネを稼いでみるかと決意したという。

とりあえず稼いでみよう。

月30万、年収400万辺りを目標で。

目線が変わると選ぶ基準も変わる。

今の自分に取り得る選択肢から、最善の仕事を選択しましょう。

とりあえず、真剣におカネを稼いでみようと思います。

 

若者向け商品をおっさんが作ってもムダ。自分が好きなモノしか作れない。

 

クルマにしろ携帯にしろ何にしろ「若者向け」というモノが跋扈している。

狙いとしては「次世代に残したい」から。

若い人がユーザーになれば、10年後20年後にも存続できる。

しかしながら、おっさんが若者向けを作るのは不可能だし、傲慢そのもの。

おっさんはおっさんの感性や経験で若者が好きだと思うモノを作る。

しかしながら、若者は若者の感性で今好きなモノを買う。

本来であれば、若者が欲しいモノを作るなら「同じ若者が作る必要がある」。

 

◾︎おっさんは、同じおっさんに向けて欲しい商品を作る方がいい

同じ世代で、同じ経験をし、同じ感性を持っている同世代へ向けて作る。

それでこそ間違いなく欲しいモノを理解できるし、作れる。

自分達が完璧に満足できるモノを作り、それを自分達と同じ感性を持つ人に訴求する。

それが最も自然であり、確実に成功できる。

 

◾︎違う世代から興味を持たれるのは「運ゲー

江頭2:50が人気再燃したり、ちょっと前に小林幸子がニコ動でバズったりした。

これは単なる偶然。

このお二方も若者を狙い撃ちしてコンテンツを作ったわけじゃなく、一生懸命やってる中でたまたま若者の目に止まっただけ。

若者向けに発信して、その通り若者にウケるなんてのは不可能だし、その浅はかな若者狙い撃ちこそがむしろウザい要因となる。

 

◾︎自分がいいと思うモノを真摯に作るのが最善

自分の知識と経験をフル動員して、ベストなモノを作るしかない。

若者向けとかムダな事をせず、自分に真摯に向かい合ってベストなモノを出す。

それ以降の評価はユーザーが決める事。

制作者が決める事じゃない。

 

◾︎若者は若者が好きなモノを買うし、おっさんはおっさんが好きなモノを買う

若者はYouTuberに憧れるが、おっさんはテレビタレント(とんねるずとか)に憧れる。

若者はソシャゲに廃課金するが、おっさんはプレステを買う。

若者はスマホと関連商品(AirPodsなど)にお金をかけるが、おっさんはバイクやクルマにお金をかける。

それらは経験の違いであり、その時代の価値観の違いである。

それぞれが好きなモノを買い、それぞれが好きなモノを作る。

ただそれだけのシンプルなお話し。

 

◾︎俺は俺の世代の人しか分からない

筆者は30代である。

筆者は筆者なりの経験してきたことがあり、好きな事がある。

今の10〜20代が何考えてるかなんて分かんねーし、何を好きかも知らんし、考えるつもりもない。

俺に分かるのは、俺と同じか似た経験をしてきた30代のやつだけ。

40代以降の人が何考えてるかも知らんし、こちらも興味もな…くもない。

若者がどう考えてるかは自分が通ってきた道だからある程度想像できるが、先人が経験し、今考えている事は「自分の埒外にある」から興味がある。

まあ何にせよ、俺は俺の世代の人しか分からんし、そこに向けて書く事しかできない。

若者向けや、上の世代向けになんかやろうとは考えたことすらない。

面白いと思うやつだけが見ればいい。

押し付けるつもりもなければ、強制するつもりもないし、逆に何か言われても改めるつもりもない。

 

お前はお前であり、俺は俺である。

 

俺は俺がベストなモノを提供するが、それがお前にとって良いモノかどうかは知らん。

たまたま合えば幸せだし、合わなければ去る方が良かろう。

 

そんな自由な空間です。

 

見た目から受けるイメージはほぼ100%正しい。

 

優しそうなやつは優しいし、モテそうなやつはモテるし、ダメそうなやつはダメである。

見た目から受けるイメージってのは、大体において正しい。

 

◾︎見た目に能力が出る

服装な雰囲気などの総合した見た目が既に「情報」であり、「全能力がそこに出る」。

例えば、コミュ力などの「社会性」。

これは、相手にどう見られるか?

どう演出するか?

など、「相手と自分の関係性がどうなっているかを受け取る力がある事を示す」。

気にしない人、即ち「どう見られているかを感じ取れない人」は、「社会性のない見た目になる」。

服装にしろ、髪型にしろ、身につけているモノ全てに対して配慮が足りなくなる。

結果、あまり良い見た目ではなくなる。

気にする人は逆で、どう見られるかを分かっているので、見た目に関するモノに対する配慮が出る。

その結果、小綺麗な見た目となり、第一印象が良くなる。

同様に、考える力がある人は軽率な事をしなかったりなど、とかく「立ち振る舞い全てが情報」であり、「その人の能力を表す」。

 

◾︎膨大な経験から、相手の見た目を判断してる

人間は皆んなそうだが、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、社会人と、既に膨大な量の「経験」をしている。

当然、嫌なこともあり、良いこともあったはず。

その中で、凄いやつもいれば、大したコトないやつもいたはず。

そういった「経験」の中から、相手のコトを判断している。

経験に裏打ちされた、確かな「勘」であり「感覚」でもある。

その感覚を見て見ぬふりをするのは勿体ない。

 

◾︎文章では分かるのは「内容」のみ

相手を正確に判断出来なくなる。

つまり「見誤りやすい」。

特にネットで、このブログなどが代表的。

俺が自慢話を書いても、失敗談を書いても、「「何を」「どのように」書いているか?」しか分からない。

本来であれば「誰が」「何を」「どう言っているか?」で判断出来るモノが、主題と内容でしか判断できない。

情報の正確性は「見た目の情報に劣る」。

 

◾︎文章では「相手を判断できない」

とりあえずの判断として…

何を言いたいのか?

言いたい内容の質はどうか?

この2点での判断となる。

しかしながら、正確性に乏しい。

乏しい上に、言葉を尽くして説明すべき相手なのか?という判断もつかない。

見た目が分かれば、コミュ力や能力のある人には説明したり、逆に説明しても無駄そうなやつは誤魔化したり出来る。

しかしながら、文章だけの場合、説明すべき人なのか?説明してもムダな人なのか?の判別ができない。

本などもそうだが、文章はまあ「暇つぶし」ですよ。

情報量が少なすぎてコミュニケーションとしては難しい。

 

◾︎まとめ

見た目の判断は正しい。

それは「経験」に裏打ちされた「感覚」だから。

そして、文章では相手を判断できない。

LINEなんかでやり取りできれば、どのくらいのペースで帰ってくるか?やり取りした内容を覚えているか?それが会話に活かされているのか?などの観点から、およその性格と能力と人物像は掴める。

しかしながら、コメント程度のやり取りで人物を判断するのは無理。

そんな感じで。

 

*余談

過去にも書いたが、このブログは「俺の完全なる趣味」でやっている。

主題を決めるのも俺だし、内容を決めるのも俺。

思った事を好き勝手にラクに書くだけ。

仕事としてやってるブログであれば「カネ」や「人気」などが重要になる。

しかしながら、このブログに目的は一切ない。

ただ俺が思ったコトを好き勝手に書く。

見るのも自由だが、去るのも自由。

意見するのは自由だが、それを受け入れるかを決めるのは俺である。

面白いなら見れば良いし、嫌なら去ればいい。

なんの干渉も受けず、好き勝手やってるブログがここの特徴である。

それを前提として、後の判断はあなたが勝手にしてくれたらいい。

俺はこれからも自由にやってますんで。

 

PS5の生産台数の推移は、PS4発売時と同じなんじゃないか?

 

まだ買えない。

という事で、色々推察してみる。

 

▪数字たちから推察

まず国内販売台数。

ファミ通が集計していて、12月末までの販売台数が「25万台」。

ソニーのジム・ライアンが明言した、年度末(3月末)までの生産予定は「最低760万台」以上。

そして、日本のシェアは約10%。

*世界販売台数が1億1000万台に対し、日本の販売台数は900万前後。

つまり、現時点(発売2ヶ月)で、「日本の販売台数の10倍である250万台が生産されている」と考えても、おかしくはないだろう。

そして、残り3ヶ月で約500万台を作る計算になる。

それは不可能だとしても、2ヶ月で作れた250万台は出荷されると思って間違いないだろう。

 

PS4は2月発売で3月にはほぼ買えた

ヤフーのライターに詳しいが、皆に行き渡る台数は「およそ50万台前後」と計算されている。

PS4は海外で11月発売で、4カ月遅れで日本発売。

在庫をばっちり確保した後という事で転売屋爆死レベルで簡単に手に入った。

つまり、来月にはPS5もそれとほぼ同じ状態になるんじゃないか?という事。

 

▪2月にはおおよそ買えるようになる

PS4と同じ推移という過程が正しければ。

素ごもり需要やらで前後するが、この狂騒も終わりが見えた。

実際にソニーストアでも予約は開始したし、各種予約も復活してきている。

欲しい人はもうちょい待てば余裕で買えるだろうという予想。

 

そんな記事を書いて残してみる。

 

他にも働く場所はいっぱいあるのに、なぜそれに気付かず我慢しているのか?

 

今のそこ以外にも働く場所はいっぱいある。

 

筆者は2018年に3社、コロナ直撃の2020年に10社受けて、転職を決めている。

2回転職して思ったのが「働ける場所なぞいくらでもある」という事。

それは一般的にはあまり知られていない事なのかもしれない。

 

◾︎「仕事辞めた」というと、似通った反応がくる

代表的なのは、「我慢して残った方がいい」。

もう一つは、「生活大丈夫なの?」。

そして最後は、「働くとこあるの?」だ。

いずれも大丈夫なんだが、経験したコトない人には想像できないらしい。

我慢してまでそこに残る必要はないし、次の働く場所を探せば良い。

生活は、贅沢をしなければ生きていける程度に金銭はある。

余裕ではないがカツカツ貧困生活でもないし、今のまま一生過ごすわけでもない。

それは他の人にしても同じだろうし、他人があれこれ言う必要もない。

 

◾︎なぜ「我慢しなければならないのか?」

結構な頻度で言われる「我慢」という言葉。

その耐える意味を問いたい。

「金銭のために仕事をしてる」なら、それは耐える必要があるだろう。

それは「金銭を貰う」という対価に対しての努力であり、必要な労力。

もしくは「好きなコトで食うために仕事をしている」。

それも「好きなコトで対価を貰うために我慢する必要がある」。

 

しかしながら、金銭的にも大したコトがなく、中身も好きでもない仕事をしているのに「我慢しろ」と言う。

逆に問いたい。

なぜそこで我慢して働いているのか?と。

 

◾︎我慢する「意味」を問う

なぜそこで働くのか?

金銭なのか、好きな対価なのか?

それとも別の何かなのか?

あなたはなぜそこで働き、我慢するのか?

その我慢はあなたが欲しい対価として正しいモノなのか??

きちんと自分に問うてみて欲しい。

 

◾︎まとめ

働く場所はいっぱいある。

仕事辞めても死にはしない。

しかしながら、辞めたと言うと「我慢しろ」と言う。

では、なぜ「あなたはその仕事で」「そこまでの我慢をしているのか?」。

あなたの貰っている対価に見合った我慢なのか?

自分の中で明確な答えが出ていれば、他人に対して我慢を強要することはなく、自分のやりたい事に集中しているでしょう。

今一度、自分に問うて見ていただきたい。

その我慢は正しいコトなのか?と。