得られる情報量が違うから。
最近気付いてビックリした。
◾︎ただ「歩く」という情報量
「歩く」ってのは「無意識にやってる」。
故に、何も考えてないと思ってる。
しかしながら「歩く」ってのは、膨大な情報を処理してる。
簡単に書くと…
1、地面の情報
転ばないように。
2、空間の情報
モノにぶつからないように。
3、人と距離の情報
人にぶつからないように+こっちを見てるか?どっちに避けるか?などの情報。
4、歩幅や足の運びの情報
歩幅、自分の体力や身体情報。
5、行き先への道筋の情報
残り時間など。
これら全てを無意識に処理して歩いている。
なんで気付いたか?ってーと、家にこもってひたすらNBA観てスマホいじってて、飽きたから外に出たのよ。
当然「めっちゃ目が痛い」。
そしたら得られる情報量が減ったのよ。
歩いてて怖え上に、色々見るために眼球を動かすと痛えっていう。
んで、ムダに考えながら歩いてたら、結構色んなモノを見て判断しながら歩いてんなと気付いた。
◾︎人と会話するのも同じ
もし「あなたと会話をする」としよう。
その場合、あなたが「どんな顔をしていて」「どんな態度で聞いているのか」で、大体の理解状況が分かる。
聞く気がなく興味がないのか、詳しく聞く気があるけど理解してないのか、完全に理解していて次を待っているのか?
これらが対面で会話していれば分かる。
それによって対応が変わる。
◾︎一人でいると「情報量が少ない」上に「1つのことしか考えられない」
例えば「本を読む」。
簡単に言えば、読んでる本の情報量しかない。
このブログで例え直すと分かりやすいが、この文章の情報量しかない。
俺がどんな顔で、どんな態度で、どれだけ伝える気があって、どれだけ真実を述べているのかの情報がない。
それが100%確信を持って伝えているのか?
60%の精度のモノを「吹かし」ているのか?
あるいは騙す気があるのか?
それらは対面であれば態度で伝わる。
しかしながら、文面だけの情報量では何も分からない。
足りない情報は「あなたで補足」し「あなたが考えなければならない」。
そうなると1つのことしか考えられなくなる。
この俺が書いた情報しかあなたの手元にないのだから。
それは不確実で、不完全なものになる。
◾︎外の情報量が絶対に必要
あなたが「目で見て」「自分で体験したモノ」だけが真実。
理由はお分かりだろう。
情報量が全然違う。
モテ論だけ読んでてても「絶対にモテるようにならない」。
何故なら「対面の女性の情報がない」から。
あなたの目の前の女性が「どんな顔で」「どんな態度で」あなたと会話をしているのか?
目の前の女性の情報量から「あなたが感じる事」こそが最重要。
それは理論や本なんかには書いてないし、1つの単一の情報から判断できるモノではない。
全体の文脈があって、目の前の女性の情報量があって、初めて「判断できる」。
これは家やモニターで判別することは不可能であり、必ず原始的な「会う」という作業が必要になる。
言わずもがなだが、これは「仕事」や「人付き合い」にも当てはまる。
全体の情報があり、目の前の情報量があるからこそ判断できる。
目の前の情報を軽視して判断できるモノなどない。
あったとしても、それは「自己満足」。
自分のことしか考えず、自分が最もいいと思うモノを出すだけ。
そこに「相手はない」。
芸術なんかはある種の「そういう部分」が必要になるが、対人コミュニケーションにおいては悪手となる。
◾︎まとめ
外に出よう。
情報量が全然違うから。
俺らは無意識に色々な情報を処理してる。
そして、その情報がないと「正確に判断できない」。
人が怖いと思うのも「人の顔を見ていないから」。
どういう顔で、どういう態度なのかの情報量があれば、どういう状況なのかが分かる。
分かるなら判断できる。
そういう情報がなく、ただ「本を読んだ」とか「考えてる」ってのは「意味がない」。
情報量が少ないから。
その判断は間違ってる可能性が高い。
現実に「自分の目で見て」「自分で体験して」判断しよう。
考えたって分かんねえよ。
情報量が足りてないんだから。
とっとと外に出て膨大な情報量を得よう。
家で考えてる100倍は有益な情報が手に入るぞ。