読書は「娯楽」。
そして空想の産物。
それ以上でも以下でもない。
◾︎本に過剰な期待をし過ぎ
本は「知識の塊」ではある。
では「知識とは何か?」。
「やった事」と「その結果現実になった事」。
…で、よく考えて欲しいんだけど「人って個々人で相当違うよね」って事。
⚫︎モテ論と同じ
例えばだが、「斎藤工」や「菅田将暉」なんかが女性を口説くのと、その辺の一般人が口説くのとでは「難易度の差は計り知れない」。
斎藤工が「顔より心ですよ」って仮に言ったとして、それを額面通りに受け取れるか?っていう。
*実際、斎藤工目線では「モテないらしい」が、どれだけの状況下でそれを発言してるのかは謎。
本も一緒。
東大行っちゃうような基礎を持ってるやつと、その辺の一般人が同じ事をしたって無駄。
堀江貴文にしろ、勝間和代にしろ、川上量生にしろ「小学校から抜けた成績を出してる」。
そういう基礎があっての「結果」。
上っ面だけ真似したってできるわけないのよ。
⚫︎一応俺の経歴を書いておく
筆者は「底辺高校出身の最終学歴高卒者」。
行ける大学はないって言われたくらい。
勉強は大嫌いだったし、早いとこ稼ぎてえと思ってた。
んで、ここ最近、稼ぐために散々本を読んだ結果「意味がないと悟った」。
一応、筆者は昔から方々で「頭いい」って言われんのよ。
「クソ底辺高校出身なのに」。
なもんで、俺は大した事ないから、読んだ感想は自分で考えてくれ。
俺は「頭がいい人の真似をしてもしょうがない」と感じてる。
◾︎自分が実際にやった事にしか意味がない
何を学んでもそう。
現実で実際に実行する事で「結果になる」。
本を読んでも、調べ物しても意味ないのよ。
それを知って「実際にやってみたかどうか?」。
俺やあなたが実際にやったことにしか意味がない。
ちなみに「やろうとしたけどやれなかったってのも立派な結果」。
やれなかったから「次へ行ける」。
「やれない」のと「知ってる」のは結果は同じだけど意味合いが違う。
知ってると「何でもできそう」に思える。
だが、そこで「自分は何ができて何ができないのか?」。
要は「現実と空想の区別をつける必要がある」。
できない事は「恥ではない」。
自分ができないという「現実を知っている事」に意味がある。
理論上できるできないもあまり関係ない。
今の自分がそれをできるかどうか?
これが「生きた知識」であり、本では得られないモノ。
*余談
このブログの半分くらい…特に2018年より前…は、半分空想でできてる。
これは「俺が現実と空想を区別できてなかったから」。
何が空想で何が現実かは「あなたが確かめて欲しい」。
俺が書いてあったやつと違うじゃん!ってのが、あなたにとっての「生きた知識になる」。
◾︎他人の物語は、あくまでも他人の物語
自分の物語は「自分で作るしかない」。
そのために本を読むなら問題ない。
だが、往々にしてそうならない。
読んだだけで満足し、自分で実際に試すことが疎かになる。
そうすると現実は変わらない。
そうなったら本は捨てるべきだし、現実で使える最低限の知識だけあればいい。
他人がアレコレ言ってたとしても「それはそれでしかない」。
その時点では「あなたに関係ない」。
そこから「あなたが実際にやってみることで現実になる」。
この切り分けが大事。
頭でっかちはよろしくないぞ。
◾︎まとめ
本自体に意味はない。
本で読んだ事を「実際にやってみる事で」意味が発生する。
現実と空想の区別を付けること。
できそうなじゃなくて「やってみた事」。
できなかった結果も含めて現実。
本は空想の産物。
それがたとえ現実の物語であったとしても。
自分で実際にやってみよう。
そこで得た経験のみが「真実」であり「現実」。
空想と現実の区別をつけて生きていきましょう♪