2通りあると気が付いた。
作られる過程をば。
◾︎2通りの自信
1、個人的な自信
これが世に言う「親からの愛情」。
特別何もなくても「存在が認められてる」「発言権がある」などの経験を得て顕在化する。
ワガママを聞いてくれたり(叶えるではない。なぜ?どうして?と、キチンと対話をしてくれるという事)、なんだかんだと声かけてくれたり、心配してくれたりってやつ。
「親(他人)にアクションを起こす→ポジティブなリアクションしてくれる」っていう経験が積まれる。
これがあると「他人は自分を認めてくれて、コミュニケーションが取れる存在なんだ」と学べる。
結果、他人とコミュニケーションを取るときに気後れしなくなる。
*基礎は「親」だが、それ以降は「友人関係」に依存する。
2、社会的な自信
これは「学校」で規定される価値。
要は学校的価値観で「使えるやつかどうか?」。
勉強ができる、スポーツができる、無遅刻無欠席、先生の言う事を聞く、真面目で問題を起こさない、辺り。
こっちの評価で「高校以降が決まる」。
成績上位陣は「学校は選び放題」。
つまり「自分を必要としてくれている学校が多くある」。
しかも、学校内では「常に優等生扱い=必要とされる扱い」をされる。
成績下位陣は「学校が選べない」。
結果「自分を必要としてくれる学校がない」。
もちろん学校でも「劣等生扱い=必要ない」
つまり「社会的に必要ない」というメッセージを大量に受け取ることになる。
*学校は優秀な生徒(扱いやすく成績優秀)が欲しいのであって、独立独歩できるタフネスなやつを必要としていない。
ここで自信の差が生まれる。
◾︎自信が必要とされる場面
1、個人の自信
恋人や親友などの「近い関係」でいる。
この距離だと、ハッキリ言って「社会的な文脈はどうでもいい」。
俺にとって面白いやつで、俺にとって重要な人であれば、極論「犯罪者でもいい」。
この関係で必要になるのは「自分がそいつを信用できるかどうか?」だけ。
逆に言えば「ここに自信がない」場合、近い関係を築く難易度が跳ね上がる。
「社会的な保証が欲しい」と言っても、大企業勤めのクソ野郎もいるし、詐欺師もいる。
「コイツになら裏切られても構わない」という「自信」。
このある種の「気安さ」があるほど楽に関係を作れる。
2、社会的な自信
こっちは「遠い関係」。
友人の友人の集会とか、ネットのオフ会に参加したりとか、趣味の会に頻繁に顔を出したりなど。
「社会的に認められてきた」ならば、こういう所に気軽に顔を出せる。
「社会に対する怖さがない」。
社会=味方という図式で生きる。
どっか行けば「〇〇大卒」「〇〇企業勤め」「勤勉」「真面目」などの評価を受け、他人に気後れすることがない。
逆に、これが欠けると「社会的資本が得られない」。
劣等生は「社会が敵になる」。
すぐ喧嘩する、規則は守らない、勉強はできないで、延々と問題児扱いされると「社会=自分を認めない場所」になる。
当然、自慢できる経歴などない。
大したことない学校卒、中小企業勤務、問題児なので、一般的な集会に行くと「異端児扱いされる」。
よっぽど趣味が合うところ以外は顔を出さなくなる。
そして社会的資本にアクセス不能になる。
◾︎解決策
1、個人的な自信
「想いを吐きまくる」。
文章でもいいし、音楽でもいいし、絵でもいい。
とりあえず感情を吐きまくって、それを公開する。
「それで大丈夫なんだ」という経験をする。
繰り返しそれを行う事で、自分を認められるようになる。
2、社会的な自信
「勘違いだと理解する」こと。
一個の能力があっても、他の能力まで高いわけじゃない。
会社で評価が高くても、趣味の集まりでは評価が低いかもしれない。
そのように「場所が移れば肩書きや実績は意味を持たない」。
違いは「堂々と絡めるかどうか?」だけ。
ただ前に出て行って「大丈夫なんだ」という事を理解する。
だたし「そういう場所には行かない事」。
学校名や経歴で評価する「閉じた場所へは行かない」。
医療や教育系、大手企業などは完全にそれ。
そういう場所には「そういうやつが集まる」。
わざわざ苦しい場所へ行かない。
逆に、趣味の集いなんかは「経歴が問われない」。
そういう場所へいく。
◾︎まとめ
自信は2種類。
「個人」と「社会」。
両方あるに越したことはないので、一個ずつ高めていこう。
快適に生きていきましょう。